塀の内側は花が咲き、塀の外側は良い香りがする漢字の東渡から覗く『玉篇』の影響
『漢字東渡』(浙江大学出版社)という本を執筆のため、漢字と関係のいろいろな資料を調べました。長い間に日本に保存されている『玉篇』に関するものも読み漁りました。
漢字は日本に来なかったら、日本はどうなっていくのでしょうかというショッキングな質問を提出したのはある日本人学者でした。このことは『漢字東渡』を執筆するきかっけとなりました。確かに、日本の発展の原動力は「漢文の素養」で、漢字がなければ成立しないものです。そういうわけでもあるが、中国においてすでに亡逸した原本『玉篇』は、日本の寺社や収蔵家の手によって今日まで傅えられてきました。
すでに広く知られている通りに、『玉篇』というのは中国南朝梁から陳にかけての学者顧野王に編纂された字書で、三十巻からなります。漢字を部首別に分類し、字形、読み、意味などを解説しています。特に、後漢の許慎が編纂した『説文解字』を元に、より詳細な解説を加えている点が特徴です。しかし、『玉篇』は編纂後間もなく南朝梁の官僚蕭愷らによって改刪されました。更に唐朝に至って増損が行われ、上元元年(674)に孫強が増字したものは「上元本」と言われました。次いで宋の大中祥符六年(1013)に、陳彭年らが勅を奉じて重修増字したのが『大広益会玉篇』でした。「上元本」は現存しておらず、『大広益会玉篇』の南宋の刊本が日本の宮内庁書陵部に所蔵しています。一方、顧野王が編纂した原本『玉篇』は中国において早く亡逸した。
『玉篇』は豊富な注釋には原典が引用されており、膨大な説明は『説文解字』の極端に短い説明と対照的です。そのため、一種の便利な類書として使用されていました。いちいち原典に當たらず、『玉篇』の引文から孫引きされることも間々ありました。従って、日本では王朝時代から『玉篇』が大いに流行していました。
弘法大師空海が編纂した日本最古の漢字辞書『篆隷万象名義』はこの『玉篇』に依拠したことから、『玉篇』は空海が日本に将来したとされています。『篆隷万象名義』は、篆書部分を除いて親字の配列が原本『玉篇』残巻と一致し、説明も『玉篇』から抜き出したもので、『玉篇』との関係は明らかにしています。また、これによって原本『玉篇』の全体像をある程度知ることができます。
江戸時代後期あたりから慧眼な學者たちが原本『玉篇』の存在を注目し、覆刻刊行するようにしました。例えば、林述斎が刊行した『佚存叢書』には、日本伝存の唐写本四巻本が収められていました。清朝の楊守敬等による原本『玉備』日本古本の再發見は顧野王の名がふたたび世に知れ渡ることになりました。黎庶昌は、日本伝存の『玉篇』第九、第十八之後分、第十九、第甘二、甘七を『古逸叢書』に収めたことにより、原本『玉篇』の残存していることは中國學界にも廣く知られるようになりました。
しかし、『古逸叢書』は日本伝存の『玉篇』を網羅していませんでした。さらに調べてみると、日本には第八、第九、第十八之後分、第十九、第廿二、第廿四、第甘七の古本七巻が日本に残されています。そのうち、首尾完存するもの或いはほぼ全卷を存するものとして、現在早稲田大学が所蔵している巻第九残巻、石山寺が所蔵している巻廿七後半及び伊勢神宮が所蔵している巻廿二は日本の国宝と指定されています。これらの国宝『玉篇』は、原本の姿を伝える貴重な資料であるため、中国の字書研究や、日本の書写文化を研究する上で重要な役割を果たしています。
また、室町時代初期に編まれたといわれる『倭玉篇』は『大広益会玉篇』の影響を大きく受けているといわれます。室町時代・江戸時代を通じて広く用いられ、「倭玉篇(和玉篇)」とは漢和辞典そのものを指す言葉ともなっていました。
『玉篇』は日本に残られていることはまさに『漢字東渡』の代表ではないでしょうか。また、『玉篇』はこのような大きな影響を残されていることは「塀の内側は花が咲き、塀の外側は良い香りがする」と言えるでしょう。漢字の東渡は漢字のもう一つ発展ぶりを見せてくれたと思わずにいられません。
作者简介
黄賀強
上海生まれ、東京在住。
上海大学卒、上海社会科学院で経営学修士号を取得。上海世紀出版集団学林出版社に勤務、雑誌『編輯学刊』の編集者、月刊誌『聴く中国語』の編集長などを歴任。中国と日本の文化について研究する。水墨画作品『石庫門』が第14回日本公募ZEN展の大賞を受賞。
著書に『方寸芸術――日本蔵書票之話』(浙江大学出版社)、『漢字東渡――日本漢字趣味談』(浙江大学出版社)、訳書に『蔵書票之話』(斉藤昌三著 広西師範大学出版社)がある。




